末期がんと診断がついて、患者にもそれが伝えられれば(告知)、医師が患者やその親族から問われるのは、決まって「あとどれくらい生きられるのか」である。
患者から問われなくても、医師がその期日を宣告する場合もある。
しかし本当は、人の余命など誰にもわからないのだ。
計算通りにいかないのが生命の不思議なところなのである。
その不思議さに目を向けないで、余命をいうなど医師のおごり以外なにものでもない。
ケガや病気の状態とその回復の見込みについては、医師はコメントできよう。
けれども、いのちの長さについて、裁判官のように裁定を下すことなどできはしないのだ。
医師を長年もやっていれば、死んでもおかしくないという状態からの奇跡的な回復例は、だれでも何度か体験しているはずだ。
自分の体験でなくとも見聞きはしている。
特に宗教や神秘的主義的な視点を持たなくても、それを教科書以上に自分の体験として学び取らなくては、なんのために医療という、人のいのちの最前線にたっているのかわからない。
病気には医師物差しがあったとしても、いのちにあてはめられる物差しなどないのである。
まったく人のいのちには常識では考えられない回復がよくある。
それがいのちの深さというものだ。
医学書には、全血液量の3分の1が出血すると人は死ぬとよく書かれている。
ところが4分の1の出血でショック死する人がいれば、半分以上出血しても死なない人もいる。
教科書通り、呼吸停止が3分で脳死する人がいるかと思えば、15分経過しても、脳に何の障害も残さず回復する人がいるのが現実である。
いわゆる末期がんでも治る人がいる。
生還率がゼロでない限り、少しでも生還できる可能性があれば、平均値は出せたとしても、一人ひとりのいのちに対して余命をはかることなどできはしないだろう。
まして、末期がんは奇跡と呼べないほどの確率で治るのだ。
奇跡というには、せめて何万人に1人の低い確率でなければなるまい。
病名は伝えなければならない。
だが、余命を言うのはがんへの大きな抵抗力を生み、実際にがんを克服する力を発生させる力を、そしてまた生きる希望まで摘んでしまうことにもなる。
暗示効果という点でも、医師の言葉は大きな影響力があるので、医師の言った通りにいのちのバルブが閉じられてしまう可能性が生じる。
もし平然と、いや、苦悩に満ちたポーズをしていたとしても、「あと何か月」などと具体的な日数をいう医師がいたとしたら、病院を変え、新たな生きる望みを持つことが賢明だろう。
ただし、患者が社会的に影響力のある人物だったらどうするか。
自分の死が大きな混乱を招くという認識と、死の覚悟のもとで、死んだ時のための準備をしなければならないのだと本人から訴えられたらどうするか。
それでも、余命をいうということなどできはしない。
治る可能性が限りなくゼロに近くても、ゼロでない限りは余命の計算などできるものではないのだ。
いのちというものは、一つ一つに個別の可能性があるので、けっして平均で語ることなどできないのです。

『人のいのちにあてはめられる物差しは無いのだから
末期がんであっても、生きる希望を捨てず
私と共に、がんと闘いましょう!』
院長 内藤 康弘
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